本田宗一郎の信念と技術
1906年11月7日静岡県磐田郡光明村に生まれ、84歳の生涯を閉じた「本田技研工業ホンダ」を作り上げた現場主義を貫く技術の鬼である本田宗一郎の物語である。
伊丹敬之著(2010年5月)から引用
1.略歴と伝承
自転車用補助エンジンの個人商店を創業したのが1946年、1948年に法人化して本田技研工業を創立する。翌年に藤澤武夫が総一郎と出会い、常務としてホンダに参画する。そして二人の名コンビは1973年に二人が社長・副社長を退任するまで続く。総一郎の社長在任は25年間で、社長退任から18年後の1991年、宗一郎死去、その3年後に藤澤死去。
<ホンダの成長>
宗一郎の死去以降のホンダの成長率は規模がすでに大きくなっていたため鈍ったが、宗一郎の死後17年間で6兆円近い売上増になり、2008年の自動車ランキングにおいて世界第7位、売上10兆円を超し、従業員は世界で18万人強になった巨大企業である。
ホンダの商品や技術、その市場も拡大化・深化している。
創業時の事業は、自転車用補助エンジン・改造であったが、そこからオートバイの生産、汎用エンジンの生産、次に軽自動車の生産・四輪乗用車の生産と事業分野を拡大してきた。現在は四輪中心の会社であるが二輪車としても世界一位となっている。
市場も、国内ナンバーワンのオートバイメーカーになるとすぐに世界に目を向け、1959年には米国ホンダという現地販売会社を設立した。その後もアジア・欧州と市場拡大を図りながら全世界が市場となった。
こうした企業成長を可能にしたのは、ホンダの技術ベースの深化・拡大だが、駆動源は世界最高峰のモーターレースへの参加による技術の蓄積によるものだった。つまりレースの修羅場がホンダの技術陣を鍛えたのである。1959年のイギリス・マン島オートバイレースの参戦を皮切り・1961年完全優勝、1963年に四輪最高峰であるF1(フォーミュラー)グランプリへの参加、1965年にF1グランプリで優勝、1966年にはF2レースで11連勝、等挑戦は限りなく続いていく。この参戦による優勝から次々と市場へ製品開発してゆき、小型高性能のエンジンが製品差別化のカギとするものになっていった。。
そして希薄燃焼による画期的な低公害車(CVCCエンジンの開発成功)に実現につながる。
ホンダを牽引した宗一郎は、技術を育て製品つくりを担当し、藤澤には営業と管理を任せた。そして1973年に宗一郎66才/藤澤62才、二人そろって、潔く退任し顧問に就いた(潔い引き際と語り継がれる)。後任社長の河島喜好45才に任せた。
多くの創業者社長は、ワンマンで、強いリーダーシップを発揮して企業を引っ張り成長させるが、いったんワンマン社長が退くと、途端に低迷する企業が多い。ホンダはそうはならなかった。総一郎と藤沢が残したDNA、ホンダフィロソフィが脈々と次世代の社長、幹部、社員に受け繋がれている。
とくに社員は宗一郎のことを、親しみを込めて「親父さん・オヤジ」と呼んだ。
それは、宗一郎が特別な強烈すぎる個性を持ち、人心を鷲掴みするようなものだった。そのうえ、藤澤という名伯楽がホンダDNA伝承のための組織的な手配りを様々な形で行った。
<宗一郎の個性まとめ>
①天衣無縫
本筋で良い、多くの人が喜ぶと思えばとにかく実行する。
高松宮(藍綬褒章受章時)に「研究は大変だね」と声をかけられると、「いいえ、惚れて通えば千里も一里と申しまして、好きだから苦労でもありません」と答えた。宮様に対する常識的な返事ではない。
②夢、エネルギー
描く夢の大きさと筋の良さが、人々や社員を奮い立たせ結集させるのである。
夢の実現に向けて前進を継続するエネルギーについても並外れたものがあった。(肉体的・精神的にも)
宗一郎は、社長でありながら研究所で、若手技術者と深夜まで部品施策のアイデアを議論し、翌日は朝一番に研究所に来る。そして、どうだったと若手社員に尋ねる。「時間は酷使するもの」と言い、すべての活動にエネルギーを傾けた。また、「創意工夫は苦し紛れの知恵である」としばしば言っていた。
現在ホンダで語り継がれているエネルギー創出の秘訣を語る言葉
「二階に上げ、はしごを外して、下から火をつける」このように、高速回転活動の要求が十分に伝わらないと宗一郎は怒った。そして叩かれた社員は育っていく。
厳しい要求をする宗一郎になぜ社員はついていくのか? それは人間に対する信頼と尊重(人は平等、ポテンシャルは大きい、目立たないところで努力する奴は偉い、人の喜ぶ顔が見たい)、人間への賛歌を自分の中に充満させていたからではないだろうか。
社内運動会でみんなと楽しむ、風邪をひきヨーロッパへ旅立ったエンジニアに「身体を大事にせよ」と電報を打つ、何とかしろと部下を殴りつけた翌日、「悪かったな、でもやればできるじゃないか」この湯女エピソードがたくさん残っている。
よくいう口癖は 「やってみもせんで、何がわかる」 だった。
既成概念や常識にとらわれず、自由に考える、大きな夢を描き まずやってみるしかし、 この考えで暴走して経営危機になったことが2度ある。1954年、1970年に巨大な経営危機に直面したが名パートナーの藤澤武夫が「後ろから支える役割」を見事に果たした。
2.誕生から人間休業宣言まで
①父の背中
宗一郎が尋常小学校卒業し高等小学校へ進むころ、鍛冶屋業を営む父儀兵が、腰を悪くしたため出回り始めた自転車の修理業に転校することになった。腕の良い父は、単に自転車の故障部分を直すだけでなく、谷部分も点検して乗り心地を良くしてから客に返した(顧客第一のサービス)。その後、中古自転車を安く購入して、修理再生して新品同様にして販売することを思いつき、商売にした。(自転車改造業)
このように父の顧客に対するサービス精神、創意工夫して改造するやり方を宗一郎は子供ながら父の背中を見て学んだ。
東京の「アート商会」という自動車修理工場の丁稚小僧の案内を見て中学進学せずに応募した。こうして、東京行きが決まった15歳の宗一郎だが、父からは3つの教えを受けた。
一 何をやろうと勝手だが、他人には迷惑をかけるな
二 大人になっても博打だけはするな、あれは癖になり麻薬と同じだ
三 時間を大事にせよ、時間を有効に使うか無駄にするかで人生は決まる
こうして宗一郎は終生この三つの教えを守り、特に時間についての考え方の原点はここにあった。人に平等に与えられている時間を、有効活用するために、酷使するスピードを上げて短時間で大量の良い品質の仕事をすることの大切さを社内報で説いている。
②もう一人の一郎
同じ静岡県出身の豊田喜一郎(27才)は、その頃欧米産業視察のため妹夫婦とアメリカへ旅立った。彼の父、郷土の偉人である豊田佐吉の息子として父の会社のトヨタ紡織に入社、優れた技術者として自動車部を設立する。しかし喜一郎は57歳で急死して、宗一郎のようにトヨタを育てることができなかった。その後、長い間、宗一郎とトヨタは様々に交差する。
③心の修理業
アート商会では、最初のころは自動車の本を読み漁り、兄弟子たちの作業をよく観察して基礎勉強をした。しばらくするとアンダーカバーの修理の手伝いをやれと言われ、仕事の手際が良かったため、修理作業の時間が多くなっていった。元々、父の鍛冶屋の手伝いをして金属加工作業に慣れており、修理技術を身につけていった。ここでの仕事で「お客様の安心こそ鍵」という商売の心得を学んだ。
車を壊したお客さんは、修理工場に来るまでさんざん苦労して「心も壊れている」、だから、相手の不安を和らげるように対応し、故障の原因、どの部品を交換して処置したかなどを分かり易く説明する。たとえお客さんがわからず「ああ、そうか」という具合でも、ただ直りましただけでは、お客の心は直せない。いかに相手に納得して安心してもらうか、これが問題である。
→この時代に車づくりは顧客満足と安全安心がベースである事を良く表現している
④創業(第1~第3まで)
・アート商会浜松支店(のれん分け)
・東海精機重工業
四輪自動車製造(自動車修理、ピストンリング製造、オートバイおよびエンジン製造)
・本田技術研究所(個人商店1946年→法人化)
⑤敗戦による人間休業宣言
トヨタの下請けの誘いを断り、東海精機重工業を株式売却(当時45万円=約2億円)した。
そして1年間の休業宣言(心身共に休養)
⑥出会い
1949年8月、通産省の竹島浩の仲立ちで営業と資金を任せられる藤澤武夫に会う。藤沢は当時、日本機工研究所を設立して中島飛行機に納入していた。二人は性格は違うが互いに認め合い、互いの貧しい出自と経営体験「平等」の大切さを経営の根幹に置く経営者になった一つの背景であり、人情の機微、直感力や洞察力、人を見る目をさらに磨かせる要因だった。
⑦三つの喜び
造って喜び、売って喜び、買って喜ぶという三つ
・第一の喜びは技術者に与えられた喜びであり、アイデアにより文化社会に貢献する製品をつくり出すことは無上の喜びになる
・第二の喜びは、製品の販売に携わる者の喜びであり、販売店各位の協力と努力によって需要者各位の手に渡る。安くて品質良好な商品か必ず売れ、大きな誇りになる。
・第三の喜びは、すなわち買った人の喜びであり、最も公平な製品価値を決定する。
⑧ヒット製品
A型エンジン→E型ドリーム号→F型カブのヒットへ
藤澤は、自社製品であるカブをどのように販売するか、その流通網を考えたときに、全国に5万店以上ある自転車小売店を活用する事であった。そのユニークな発想と勧誘手段としてDM(ダイレクトメール)を使い、手書きで名文を作成した。第1弾:勧誘する 第2弾:興味ありの返事が来たら、小売価格2万5千円、卸価格1万9千円、この金額を郵便為替か、銀行振り込みでという内容 第3弾:銀行支店長から小売店に手紙が届く、このようにして5000件→13000件からの入金とともに取扱店が新規にできた。(銀行の信用がある企業イメージ)
⑨現場の心がわかる経営者
世界一を目指せという宗一郎の演説は、ミカン箱の上に朝礼で意気軒昂だった。
宗一郎は社長室にいるような人ではなく、常に現場に出たがっていた。人一倍現場の作業条件に気を配る経営者であった。
白の作業着は環境が良くなけりゃ働く意欲も落ちるということで決まった。つまり綺麗な工場から良い製品が生まれる。トイレも水洗で白のタイル張り、工場内部(工作機械)もツートンカラーに塗り替えた。だから機械の手入れも自然と皆でやるようになった。当時、どこの工場でも私服の時代に、作業委を貸与して、しかも社長も社員も同じ作業服、現場で働く人の気持ちを考えられる人の発想で、社員にとって心強かった。
(これが、終戦後僅か7年目の従業員数500人未満の中小企業の工場なのかと舌を巻く!)
3.ホンダDNA誕生
54年の経営危機は、倒産寸前までゆき強烈な体験となった。トップの基本的行動パターン、危機を二度と起こさない努力、この2つからホンダDNAとして引き継がれる多くのものが生まれた。
★平等尊重の考え方
社長は役割に過ぎない、工員も職員も区別しない、だから社長室や役員室もない。総一郎は自分の車を運転して出社した。開発チーム一員に宗一郎も加わり昼夜を惜しまず働いた。
仕事場の床にスケッチを描き、自分も車座になり若い人と議論するのが河島を相手に煙突エンジンのスケッチを床に書いて以来、修正変わらぬ宗一郎のスタイルだった。
後に社長になる川本は次のように述べた。
「解決すべき問題を見つけたときは、社長である身を忘れて、直接床に座り込んで担当者と車座になって解決策を模索する・・・それは、最高顧問(宗一郎自身)が技術あるいは真実の前に、上下の隔てはないということを身をもって示してくれたのだと気が付くにはしばら時間がかかった(ミスターホンダ)
★社是
わが社は世界的視野に立ち、顧客の要請に応えて、性能の優れた廉価な製品を生産する。
わが社の発展を期することは、一人従業員と株主の幸福に寄興することに止まらない。
良い商品を供給することによって顧客に喜ばれ、関係会社の興隆に資し、さらに日本興業の技術水準を高め、以って社会に貢献する事こそ、わが社存立の目的である。
(わが社の運営方針)
一、常に夢と若さを保つこと
二、理論とアイデアと時間を尊重する事
三、仕事を愛し職場を明るくすること
四、調和の取れた仕事の流れを作り上げること
五、普段の研究と努力を忘れない事
4.夢の実現と引退への道
①一人に天災に代わる集団の力を
藤澤は企業の原動力が研究開発にあり、研究所が生み出す製品の原図(設計図)にあると信じていた。そのために、すでに社内につくられていた技術研究所を存分に活躍できる組織にすべきだ、
と考え、独立させた。研究所という組織のありかたについて「天才を見出すことは至難である、我々凡人から最良のアイデアを生み出し、組み合わせて研究成果にすることが最大の目的にすべきである」
→ホンダは、技術が自走できる組織を作ったのである
技術開発のプロセスが探求心を駆動力として進んでいくということ…技術開発の実験が失敗しても大きな事業的マイナスにならないような隔離装置になる
②60年4月に鈴鹿製作所が完成、工場と研究所という宗一郎の本領発揮できる二つがステップアップして輝かしくスタートした
鈴鹿サーキットは1962年9月に完成、日本のモータースポーツのメッカになるだけでなく、翌年に開通する名神高速道路整備に伴い要求される高速耐久性の向上に大きく貢献する。
③シビック開発による成功とCVCC低公害エンジン
若手チームメンバーの開発したシビックは、宗一郎の従来のものに比べて異なっていたが、開発担当の坂田は、恐る恐る独立懸架方式のサスペンションの特性が世界に通用することを述べた。
シビックの成功は宗一郎の影を振り払い、ホンダDNAの再確認という意味で救世主だった。
もう一つ宗一郎の引退の花道として、の本の自動車メーカーで唯一ホンダだけが排ガス規制法であるマスキー法をクリアするエンジンの開発に成功した。
・成功は99%の失敗に支えられた1%である
・創意工夫は苦し紛れの知恵である
・真似して楽をした者はその後に苦しむことになる
・不常識を非真面目にやれ
・人を動かすことのできる人は、他人の気持ちになることができる人である
・哲学の無い人に経営はできない
・技術そのものより、その前の思想が大切である
・理念なき行動は凶器であり、行動なき理念は無価値である
→これらの言葉は、ニュアンスの違いはあるが日本を代表する経営者らと意味は同じ
「素晴らしい人生を送ることができたのもお客様、お取引の皆さん、社会の皆さん、従業員の皆さんのおかげである。俺が死んだら世界中の新聞にありがとうという感謝の気持ちを掲載してほしい」(50年史より)
・・・「爽やかに夢の車で行きたまふ」(さち夫人の句)
ずば抜けた人間力と技術者である本田宗一郎と一流の経営者であった藤澤武夫という二人の天才が、ここまでホンダを魅力ある企業にし、DNAを引き継げる社員を育てた。と言っても過言ではない。
トップの器が会社を大きくし、そこに働く人々の能力も十二分に発揮させるのだ。
終わり
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