日本語のユダヤ起源
1、要旨
ひとりのユダヤ人(ヨセフ・アイデルバーグ)が「失われたユダヤ十部族」を追い求めているうちに、日本にたどりついた。日本の神社(京都の護王神社)で修行しながら、日本とユダヤの繋がりを調査した。彼は日本語の起源はユダヤ民族が使っていたヘブライ語にある証拠をつかんだ。「日本書記と日本語のユダヤ起源」ヨセフ・アイデルバーグ著(徳間書店)から抜粋して、その内容を以下に記す。
2、イスラエルの失われた十部族
紀元前721年に、彼等はアッシリア帝国に征服され、捕囚となって連れ去られ、その後アジアのどこかへ離散していった。その後のユダヤ民族のゆくえはまだはっきりしていない。「日本書記」に示された日本古代史と、「聖書」に示されたイスラエル民族の古代史を比較してみると、同じ出来事を書いたものではないかと考えるようになった。
3、日本書記
日本人の起源は古代の真ん中で謎に包まれ、失われてしまっている。いつ日本列島に住み着くようになったのか、誰も知らない。
広く信じられている事は、日本人の中核をなすヤマト民族は西暦1~3世紀に日本の地に住み着きヤマトと呼ばれる王国を確立したということ。彼等は新しく来た移住民であったと思われるが、ひとつの伝統を持つ人々で、同じ言語を話し、同じ「神の道」すなわち「神道」と呼ばれている宗教に生きる人々であった。ヤマト民族は数世紀に渡り、伝統的な神道の宗教を固守していた。ところが西暦552年に仏教が日本に入ってきた。その結果、長く続く対立関係が、神道擁護派と仏教推進派の間に生じた。やがて両者の間に内戦が勃発。
その戦いのさなか、ヤマト民族の古代記録が全て火に包まれる事件(西暦645年)が起きた。こうして、この国は書かれた記録を持たない国家になってしまった。文明化された国家が書かれた王朝史を持たないわけにはいかず、712年に天皇の命により「古事記」として知られる歴史書が完成した。この情報源は口伝によるものであった。その8年後の720年に「日本書記」がつくられた。これも口伝をもとに日本の歴代史をつづったものであった。
4、日本書記と聖書の類似点
(1)仲哀天皇(第14代)とサウル王(初代)
聖書はサウル王について「美しい若者で、彼の美しさに及ぶ者はイスラエルにはだれもいなかった。民の誰よりも肩から上の分だけ背が高かった」と記している。同様に日本書記は仲哀天皇について「天皇は容姿端正で、身丈十尺(約3m)あった」と記している。
(2)崇神天皇(第10代)とダビデ王(2代)
ダビデ王の辞世に「3年間におよぶ飢饉があった。また、民の人口調査をした」記されている。崇神天皇の辞世にも「3年間におよぶ災厄が続いた。また、人口調査をした」と記されている。
(3)垂仁天皇(第11代)とソロモン王(3代)
ソロモン王は「エルサレムに最初の神殿を建てた。また池を幾つも掘らせ、木の茂る林に水を引かせた」と記されている。垂仁天皇は伊勢の地に最初の神社を建てた。また、諸国に令して池や溝をたくさん開かせた」と記されている。
5、神道
神道の思想は、神々・人類・自然がみな共通の先祖に発しているという観念である。だから山も谷も滝・池・木・花など生きているものも死んだものも、みなひとつの永遠的な家族の一員とされる。この力および先祖の霊を崇める気持ちから、神道信奉者は現在の生と、より良い未来の希望を持てることに感謝を捧げる。神道には教理をかきつづった教典はない。また偶像もない。全能の神もいない。人々がこの国の伝統を守り、先祖の歩んだ道に従うならば、神々は峡谷の水をして、やがて畑に米を実らせ豊かな収穫をもたらす。最も重要な祭りは、豊作を祈る「祈年祭」、初穂の祭りである「新嘗祭」、また清めの儀式「大祓」である。
6、言語の起源と民族の歴史
世界の言語はもともとひとつの言葉から分かれていった。言語の系統をたどっていくと、世界のすべての言語はいくつかにグループ分けできる。それは民族と民族の歴史的関連を物語るものであった。例えば、ヨーロッパのほとんどの言語と、ペルシャ語・ヒンディー語・サンスクリット語は「インド・ヨーロッパ語族」として分類される。モンゴル語・トルコ語・ウイグル語は「アルタイ諸語」に属する。またヘブル語・アラム語・アラビア語は「セム語族」に属する。しかし、日本語は世界の言語の中でも「孤児」と言われている。二つの言語の間に、オンも意味も同じ、あるいは非常に近似した言葉が数多く見出される時、それらの言語を話す両民族が過去において密接な関係にあったことになる。
ヨセフ・アイデルバーグ氏はヘブル語と日本語の類似語を500以上発見した。
7、「古代イスラエル宗教改革」と「大化の改新」
バビロン帝国の捕囚の身となったユダヤ人だったが、バビロン帝国滅亡後に祖国へ帰還した。紀元前444年に帰還した祭司エズラはユダヤ人の間で宗教改革を7月1日に実施した。「仮庵の祭」が7月14日だった。西暦645年の「大化の改新」は7月1日に始まり、7月14日に神道の神に供えるための捧げ物が集められている。「大化の改新」における詔の中には、古代イスラエルの伝統が数多くみられる。
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