お金の流れで読む日本の歴史

1、要旨

 お金の動きの観点から歴史を見ると、教科書で習った事件がどうして起こったのか少しでも理解しやすいということで書かれた本「お金の流れで読む日本の歴史」木村大次郎著(KADOKAWA)の内容を以下に抜粋して記します。

2、お金(貨幣)の普及が遅れた日本の事情

 日本の貨幣鋳造の歴史は「和同開珎」から始まったとされている。それ以前にも7世紀後半に「富本銭」が発行されたが、詳しいことはわかっていない。「和同開珎」の鋳造は和銅元年(708年)に開始された。唐の「開元通宝」にならってつくられた。それまでは布や米が通貨代わりに使われていた。通貨を流通させるために朝廷は大変苦労し、以下の政策を行った。まず、和銅4年には「穀6升を銭1文」に定めた。また、私鋳銭の罪法を定めた。さらに、銭を貯蓄した人への「蓄財叙位法」を定め、銭をたくさん集めれば位階がもらえるという制度をつくることで、銭の価値を高めようとした。和銅5年には銭で納税ができる制度をつくった。

 ところが760年に「万年通宝」という新しい貨幣の鋳造を開始した。この通貨は「和同開珎」とほとんど変わらない材質ながら、「万年通宝」1枚で「和同開珎」10枚の価値があると定めた。人々はその価値に疑問をいだき、設定どおりの交換には応じなくなって行った。材料となる銅が不足していたため。「万年通宝」は5年間で鋳造が中止された。

朝廷は奈良時代から平安時代にかけて、12種類の通貨を発行したが、「万年通宝」のような無理な価格設定をしたために、人々の間で銭離れが起きるようになった。そして958年を最後に銭の鋳造をやめてしまった。その後、「米・布経済」に逆戻りしてしまい、平安末期に宋銭が大量に流れ込むまで続いた。

3、武家の台頭

 平安時代の途中から武士が誕生してきた。その一つ目のルートは、公家や貴族の中から軍事を専門とする武家が現れた。平家や源氏もそのような武家である。もうひとつは、徴税の実務を行っていた「郡司」が豪族となっていった。

 1150年頃になると中国から「宋銭」が大量に入ってきた。この「宋銭」を大量に輸入し、経済力を握ったのが、平清盛らを中心とした平家一族である。米や布が貨幣代わりに使用されることがほとんどなくなり、13世紀の後半には年貢なども米ではなく銭での支払いに変わっていった。

 源頼朝は地方の豪族に「社会経済システムの変革」を呼びかけ、多くの武家を見方ににつけて平家を滅ぼした。それは武士による新しい社会経済体制をつくることだった。

鎌倉幕府は直轄地が少なく経済基盤が強くなかった。日本全体は各地の豪族が統治していた。脆弱な財政基盤しか持たない鎌倉幕府は「元寇の役」のような大きな戦いで致命的な打撃を受けてしまった。1331年に後醍醐天皇は足利尊氏・新田義貞と挙兵し、鎌倉幕府を滅亡させた。

後醍醐天皇は「律令制時代の国家システム」に戻す政策を採った。地方の豪族はこれに不満を持ち、「元弘没収地返付令」を出した足利尊氏に味方した。これは「新政府に没収された武家の領地を以前の持ち主に戻す」というもの。

室町幕府は自陣の勢力を増やすため、自分の直轄領を削って武家をひき付けてきたので、直轄領が少なくなった。そこで室町幕府は「酒屋土倉役」からの収入をあてにした。金持ちの集まりである酒屋と土倉(金貸)から徴収した。

3代将軍足利義満は新たな財源を「日明貿易」に求めた。8代将軍義政の時代になると明との貿易を許可する勘合符をバラ売りするようになった。そして守護大名のほうが将軍よりも金持ちになっていった。そして応仁の乱が起き、戦国時代が始まった。

4、織田信長の関税政策

 戦国大名にとって南蛮貿易は重要だったが、キリスト教布教の一環でもあった。織田信長はイエズス会の宣教師フロイスに布教や教会建設の許可を与えている。

織田家は尾張の津島という重要な港を押さえ、そこからの貿易で莫大な利益を得ていた。その経済力のお陰で鉄砲・大砲を手に入れられた。その後に「境」「大津」「草津」を手に入れた。当時の港では、関税を課すのが普通で、積荷の1%が徴収された。

 毛利元就は石見銀山という宝を持っていたが、本気で朝廷に銀を献上していたため、織田信長のように富を活用できなかった。

 当時の社寺は日本の資産の大半を所有していた。特に比叡山は当時の日本最大の財閥だった。どうして財閥になったかというと、寺社は全国規模で展開する悪徳金融業者(当初は米を集めて、それを貸し与えた)だった。その時の利息が年利48%~72%だった。「金を返さなければ罰が当たる」と言っておどし、武装した僧侶が暴力的に取り立てた。当時は深刻なデフレ経済だった。

 織田信長は金・銀を高額通貨として使用する法令を出した。これが金・銀が日本で始めて通貨として使用され、銅銭の不足を解消できた。

5、江戸時代が260年続いた理由

 豊臣秀吉は「太閤検地」を行った。これほど大規模な検地を行ったことは江戸時代までで他にない。農民は各地に隠し田を持っていたので、一揆につながる危険があった。その検地により田畑の所有者を特定した。それまでは一つの田に何人もの所有者がいた。また農民は壮官・守護・加地子名主と複数に税をとられていた。「太閤検地」によって分散した年貢徴収システムを一括にまとめた。

 豊臣秀吉や徳川家康がキリスト教を禁止した理由は、ひとつにはキリスト教と武器売買や奴隷売買がセットになっていたので、大名が武器を輸入することを好ましくないと判断した。他の理由としては金銀銅の不足が起こってきた。特にポルトガルが大量の金銀を日本から持ち出していた。

 江戸幕府が265年続いた理由は800万石の直轄領を持っていた。また、主な鉱山を直轄地にし、貨幣の鋳造権を独占した。江戸時代を通じて武士の生活というのは決して豊かではなかった。それが続けられたのは約50年に一度「武士の借金を帳消しにした」。そして幕府は借金の帳消しを行うたびに札差(金貸業者)に対して特別融資を行い、持ちつ持たれつの関係を維持した。

また、江戸の町民は税を取られなかったので、楽な時代だった。江戸幕府の財政政策は「貨幣改鋳」で、より金の含有量の少ない小判を鋳造し、減らした分の差益を得るものだった。幕府以上に財政難だった諸藩は幕府が発行した「万延二分金」の贋金をつくった。その贋金で西洋諸国から武器を買い、明治維新を成功させた。

6、明治維新を成功に導いたお金の使い方

 開国してまず日本の輸出品の主力になったのは、絹の原料である生糸だった。

しかし、農産物を売るよりも工業製品を売ったほうが、儲けが大きいことに気づき、次第に軽工業である綿製品にシフトしていった。

 明治時代の税金はそれほど高くなかった。庶民には「直接税」(所得税・住民税等)が課せられていなかった。少ない税金で強い軍がつくれたのは「汚職の少なさ」がある。他国では汚職が当たり前で、税金の半分は汚職に消えた。

日本軍の費用を賄った税金は「酒税」だった。酒税は国民から文句がでない税金だった。現在のビールにも50%以上の税金が課せられている。

 日清戦争は外国から借金をぜずに、国内の軍事公債だけで賄った。日清戦争の賠償金は当時の日本円で4億円になり、国家予算の4年分に当たる。この賠償金で八幡製鉄所がつくられ、残りは軍備拡張に使われた。

 日露戦争当時の国力は、GNPで比較すると日本はロシアの1/8だった。軍事費では日本はロシアの1/3しかなかった。日露戦争開始後の費用見積19億円を国家予算で5億円を賄い、残りを国債で外国に引き受けてもらう計画だった。

ところが国債を外国に買ってもらうのは非常に困難なことだった。「ロシアと日本が戦争をすればロシアが勝つ」と思っているのに、負ける国の国債を買うはずがなかった。この仕事を仰せつかったのが日本銀行副総裁だった高橋是清だった。アメリカもイギリスもお金を出してくれなかったが、イギリスの銀行家からなんとか500万ポンドを借りられた。イギリスでの晩餐会で始めてあったアメリカ国籍ユダヤ人のジェイコブ・シフが残りの500万ポンドを引き受けてくれると言い出した。シフの父親はロスチャイルド銀行の重役だった。シフがお金を貸してくれた理由は、ロシア帝政がユダヤ人を迫害していたからとのことだった。この戦争で使用した日本軍の主力艦はイギリス製だった。

7、太平洋戦争の懐事情

 1910年には日本国内の船舶は全て国内で賄えるようになった。第1次世界大戦時には造船量を激増させ、大戦後にはイギリス・アメリカに次ぐ世界第3位の造船国になっていた。世界大恐慌時に輸出振興策をとり、粗悪品扱いされていた日本製品の品質管理を厳しくしたため、円安も伴い輸出が急激に伸びた。

日本の綿輸出は1933年にイギリスを追い抜いた。綿製品はイギリスの代名詞だった。そして、イギリスはインド市場をも日本に奪われていった。それに対抗するために、インドへの輸出品に高額の課税をかけてきた。

 インドへの進出がブロックされた日本は満州へ乗り出していった。満州はまだ植民地化されていない最後の獲物だった。ここにいち早く侵略してきたのがロシアだった。満州を南下してきたロシアは朝鮮まで侵攻していた日本とぶつかり日露戦争が起こった。植民地獲得に出遅れていたアメリカは満州の鉱物資源などに並々ならぬ関心を持っていた。日本は日露戦争で獲得した南満州鉄道(鉄道沿線都市の行政権も手に入れた)で多くの利益を生んでいた。そこに張作霖は南満州鉄道と平行する形で鉄道を建設したため、日本は張作霖を爆死させてしまう。しかし、かえって中国側でひいた鉄道の方に利用客が増えてしまった。それを不満に思った日本の若者は関東軍をけしかけて、中国側がひいた鉄道の破壊(満州事変)を開始してしまう。そして国際連盟を脱退する。当時の日本は農業が中心で娘を身売りしなければならない農家が大変多かった。それに引き換え三井・三菱・住友・安田財閥だけで、全国払込資本金の49.7%を占めていた。これは国が西洋諸国に負けないような企業をつくるために、特定の商人を優遇したため。このように貧富の差がたいへん激しい時代だったので、若者に強い不満があった。満州事変後に日本は「東亜新秩序」を発表した。それは「東アジアでは日本が中心になって、新しい秩序を建設する」というものだった。これはアメリカにとって絶対に許せないものだった。そして、1941年に日本は南インドシナに進駐を開始した。日本に南インドシナを押さえられると軍需物質の生ゴムや錫を日本に独占されてしまう。それを恐れて、アメリカは一気に対日戦争に傾いていく。そしてアメリカは「在米資産の凍結」を行った。この資産凍結は日本経済を破壊する威力があった。当時は国際貿易を行うにはドルが必要だったので、資産の凍結は「日本が国際貿易から締め出される」ことだった。そしてニュヨークにあった横浜正金銀行(日本の外国為替を一手に行っていた国策銀行)が倒産した時点で、「日米開戦」が決定的となった。

アメリカは日本の経済力・資源備蓄量・鉄鋼生産量から計算して、「日本の戦争継続能力は1年もない」と計算出来ていた。ところがこの太平洋戦争は4年間も続いた。どうしてそんなことができたのかというと、日本は公債を発行し日銀がそれを引き受けて紙幣を発行した。それを放置すればインフレになってしまうので、合わせて物資の統制を実施してインフレを抑えた。

8、高度成長とバブル崩壊

 GHQの使命は「日本を二度とアメリカと戦争をしない国にすること」だ。

ところが1946年になると冷戦が始まった。その当時の日本では民主化運動が巻き起こり、共産主義革命が起こったら大変だということで、GHQは日本の貿易制限を緩和させていった。そして日本は機械類の輸出で世界貿易の中心に躍り出ていった。この日本の輸出を支えたのはユダヤ商人だった。ユダヤ人は基本的に親日的な考えを持つ人が多い。ユダヤ商人は日本製品の良さをいち早く見抜き取引を開始した。ソニーや松下電器のアメリカ大陸輸入代理店になったベンジャミン・フィッショフは「杉原ビザ」で救われたユダヤ難民だった。

三菱・日立・古河電工などの海外販売代理店を担ったショウル・ネヘミア・アイゼンバーグも難民として日本にたどり着いたユダヤ人である。1970年当時アメリカでの日本製品の卸売業者の90%がユダヤ系だった。ロスチャイルド家も戦後いち早く日本と取引したユダヤ金融家だった。

 高度成長期からバブル期にかけて、日本は「一億総中流」といわれ、格差が少なく国民全体が豊かな生活をしていた。しかし、バブル崩壊以降は雇用よりも企業や富裕層を重視する政策を採るようになった。所得税の大幅減税(所得が1億円の人の場合は、1980年の所得税は75%だったが現在は40%まで下がった。住民税も18%だったものが10%になった)。2006年の大企業でトップと平社員の差が10倍以下だったのが、現在では100倍近くになった。このような経済政策をトリクルダウン(富める者がより富めば、貧しいものも富むようになる)という理論。現在働く人の40%以上が非正規雇用である。「誰でも普通に働けば結婚して、子供を育てられる国」にすることである。特定の人たちだけが潤うような世の中は必ず長続きしない。

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