日本人が世界中から信頼される時代

1、 要旨

 日本は世界で最も好かれ、信頼されている国と思っています。日本人というと笑顔になる外国人が多い。日本製品は世界中から信頼され、愛され続けている。その理由は何でしょうか。 

 「日本はこうして世界から信頼される国となった」佐藤芳直著(プレジデント社)に書かれている内容を抜粋して以下に記します。

2、 日本人が信頼される理由

(1) エルトゥール号遭難事故⇒「恩送り」を生んだ誠実さ

  1890年(明治23年)9月16日オスマン帝国の軍艦が横浜港からの帰国途中に和歌山県串本沖で座礁した。587名の乗組員がいたが、地元の懸命な救助活動の結果69名を救出した。貧しい村であったが、備蓄食料を投げ出し、手厚い看護を続けた。10月5日、69名の生存者は日本海軍の「金剛」「比叡」の二隻に分乗し、オスマン帝国(トルコ)への帰国の途についた。トルコの人々はエルトゥール号の悲劇と日本人からの恩情への感謝を心と歴史に刻んだ。現在でも学校(トルコ)の教科書に取上げている。

 1985年イラン・イラク戦争にてサダムフセイン大統領はイラン上空を飛行する航空機を48時間以降、無差別に攻撃すると宣言した。テヘランにいた300人の日本人は日本政府からの救援機がこれないとの通報を受けた。その時、2機のトルコ政府からの派遣された飛行機がテヘラン空港に到着した。この時、数百人のトルコ人が同じ空港内にいたが、そのトルコの人々は「日本人にその救援機に乗ってもらうのだ。先人が受けた恩を返す時だ」と見ず知らずの日本人を救援機へと送り出してくれた。この飛行機が時間ぎりぎりにイラン国境を越えた。その後、1機の救援機も来ることは無かった。救援機に乗れなかったトルコ人達はトラックに便乗し、1週間近くかけて祖国へ避難した。

(2) 1905年日露戦争日本海海戦⇒敗者をも敬う立派な態度

 ロシアは当時世界最強の艦隊(バルチック艦隊)をバルト海からウラジオストクに派遣した。東郷平八郎指令長官とする連合艦隊はバルチック艦隊を待ち受けるべく日本海に展開した。結果は日本海軍の圧勝であった。バルチック艦隊は全38隻中、21隻が撃沈し、6隻が拿捕され、4830人が戦死、6000人(海に投げ出されたロシア兵を懸命な救助活動で救った日本軍の様子は戦時国際法を徹底して守ったとして、西欧の国から賞賛を浴びた)が捕虜となった。捕虜の一人にバルチック艦隊提督がいた。佐世保海軍病院に収用された提督を東郷平八郎が見舞いに訪れた。枕元に腰掛、顔を近づけて語りかけた言葉は武運つたなく敗れた提督への思いやりに溢れていたという。提督は後に涙しながら「敗れた相手が東郷閣下であったことが、私の最大の慰めです」と語った。日本海軍の戦死者は117人で失ったのは僅か3隻の小型水雷艇だけだった。当時のロシアはGDPで日本の3倍であり、世界中が白人の植民地であった時代だったので、世界中の人々の驚きは凄まじかった。

白人国家以外で植民地にならなかった国は日本・タイ・エチオピアのたった三ヶ国だけ。勝った理由は先進科学技術の導入(連射に適した無煙火薬、海底ケーブル・無線技術)と「日英同盟(当時に覇権国のイギリスが初めて結んだ同盟)」だった。この同盟を結ぶのに関係した男がいた。名を柴五郎という。柴は1900年清国の北京で起きた「義和団の乱(西欧諸国を追い出す)」の時、守備兵の日本軍指揮官だった。柴は各国公使館から信頼を得て、400人(日本人25名)で4万人の義和団に立ち向かった。そして、外交官や居留民を守り抜いた。共に戦った英国公使マクドナルドは「日本兵の勇気と大胆さは驚くべきものだ。わがイギリス水兵がこれに続く。しかし、日本兵はずば抜けて1番だと思う」と報告している。さらに後に出版された書籍の中で「柴中佐はどの士官よりも勇敢で経験があっただけでなく、誰からも好かれ尊敬されていた」と記されている。

(3) ダットサン210北米上陸⇒挑戦し続ける気力

 戦後、連合国側は日本に近代工業を再開させないという方針があり、航空機の生産・研究は全面的に禁止され、自動車の生産すら制限された。当時の有識者は「日本で自動車産業を育成しようと努力することは意味をなさない」と発言していた。しかし、そんな時代にも日本の自動車産業に希望の光を見ていた人物がいた。豊田喜一郎だった。彼は航空機産業の技術者に自動車業界で技術を生かしてもらえれば外国に太刀打ちできるようになると考えた。職を失っていた航空技術者を大量に雇用した。その人達が1966年に名車と名高い「カローラ」を開発した。

 ダットサン210は1958年にロサンゼルス港に陸揚げされた。フリーウェイでの走行がテストになり、さまざまなトラブルが発生した。それを修理しながら挑戦し続けた。そんなある日のこと。ベイカーズフィールドの長い坂道で走行テストをしている時、フォルクスワーゲンが並走してきた。抜きつ抜かれつを繰返し、ついにダットサンはワーゲンを抜き去った。その夜、日産駐在員は本社に「ワレ フォルクスワーゲンニ カテリ」と電報を打った。敗戦から13年後の事だった。チューンアップしたダットサンはニューヨークへ進出した。ニューヨークの冬は寒く、「エンジンがかからない」との苦情が殺到した。駐在員は家族まで動員して早朝のエンジンスタートサービスを行った。ヤカンの熱湯を持って走り回る日本人の姿をニューヨーカー達は好感を持って受け入れられた。戦争に敗れても、つねに未来を見つめ、健気に生きた日本人がいた。

(4) 赤穂浪士討ち入り事件⇒法を重んじる文化

 日本は昔から法を守ることで定評のある国だった。1775年に日本を訪れた植物学者・医学者のスウェーデン人のツユンベリーは「法が人や身分によって左右されず、一方的な意図や権力によることなく、確実に遂行されている国は他に無い」と断言している。

 1701年3月14日江戸城松の廊下にて、赤穂藩3代目当主の浅野長矩は突然刀を抜いて指南役である吉良上野介に襲いかかった。江戸城内での抜刀は重大な違法行為とされていた。5代将軍綱吉は十分な調査をすること無く即日、浅野長矩に切腹を命じた。この事件は多くの江戸庶民に知れ渡り、浅野長矩や家臣に同情が集まった。1702年12月14日赤穂の浪人46人は吉良上野介の屋敷を

急襲し、その首を挙げ見事主君の仇討ちを果たした。

 討ち入りから2ヶ月後、浪人達は切腹を命じられる。厳重な法治国家を目指す幕府の意思がそこにあった。46士は家康によって創建された高輪泉岳寺に葬られた。ここは江戸への出入り口にあたり、旅人で混雑する場所だった。「忠義」の心を日本中に広める狙いがあった。

(5)1853年ペリー黒船来航⇒独立自尊の精神

 米国は西へ西へとフロンティアを開拓してきた。その米国は1800年代に蒸気船が開発され、太平洋を支配し中国(清国)への進出をねらっていた。その清国の前で「通せんぼ」をしている不思議な形をした国があった。それが日本だ。

世界の陸上の10%以上を植民地にしていた大英帝国が未だ手付かずの日本に対し、米国は250年続いた鎖国の門をこじ開けにやって来た。米国は日本を「貯炭場」基地とアジアの軍事的優位性を確保するための最適な島と判断した。

 1863年には英国が日本進出をしようと「薩英戦争」をしかけてきたが、英国側は艦長・副長など多くの戦死者を出した。英国にとって過去最大の損害だった。そこで英国は日本と戦わないで支配する方向へ転換することになった。

 このような背景から日本は植民地にされたくない。独立を守り抜きたい。という恐怖心と愛国心が明治時代を生んだ。

(6)1919年人種的差別撤廃提案⇒信を通す勇気

 第1次世界大戦後のパリ講和条約で大変な勇気を奮った日本人がいた。

牧野伸顕である。彼は国際連盟の規約に、人種的差別の撤廃を入れようと提案した。それは、あらゆる人種差別を各国が協調して廃絶しようという画期的な提案だった。世界中が息を飲んで見守った多数決の結果は17対11で賛成多数だった。ところが、議長であるアメリカ大統領ウィルソンが突然こう宣言した。「このような重大な案件は、全会一致でなければ認めるわけにはいかない」

 1964年までアメリカでは人種差別法「ジム・クロウ法」があって、白人と有色人種とははっきり差別されていた。例として白人と有色人種は同じ部屋で食事をしてはならない。結婚は禁止。白人学校と黒人学校は教科書も別。白人特有の歪んだ正義感があった。この法律が消えたのが1964年だが、2000年代に入っても日常的に差別が残っている。

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