浜口梧陵の生涯

浜口梧陵(1820年~1885年)は時代を切り開いた「世界の10人」に選ばれた。その人の生涯のポイントを以下に記し、生き方の参考にしたい。「津波救国(稲村の火)浜口梧陵伝」大下栄治著に書かれている一部を抜粋して以下に記す。

1、1820年紀州の広村で生まれ、名前は七太という。父親を2歳の時に亡くしたため、祖父が父親代わりとなって育った。祖父は教養が深く人柄の良さで、村人に大変尊敬されていた。絵画の腕は1級だった。11歳でおじ(6代目儀兵衛)の養子となり、銚子の店で住み込んで働くことになった。名前は「儀太」に変わった。寝起きする部屋も、食事をするのも一番下の小僧達といっしょである。朝はまだうす暗いうちに起き、掃除や雑巾がけで一日が始まる。濱口家の家訓に「裕福でも質素な生活を心がけること」「当主でも使用人を下に見ることなく、みなと同じように働くこと」など、使用人を家族のように大事にし、ぜいたくをせず気を引き締めて生活しようという考え方が根本にある。14歳で元服を向かえ、名前を「儀太郎」と改めた。修行の日々でいそがしくても、時間を見つけては本を読んだ。「太閤記」などは暗記してしまうほど繰り返し読んでいた。スポーツも好きで相撲・剣術・柔道を習っていた。17歳の時に目標だった祖父が亡くなった。19歳で広村のとなり村でしょうゆ造りを営む家の娘(まつ)と結婚した。

2、世は江戸時代の末期で新しい政治のあり方を求める動きが、日本各地で起こり始めていた。そんな世の中の動きを敏感に感じとっていた。「もっと多くのことを学びたい」「世の中を知りたい」いう好奇心がいっそう高まっていった。江戸幕府は「蘭学」までも取り締まるようになっていった。人づてに紹介されたのが三宅艮斎だった。天然痘やコレラが流行していたので、銚子にも蘭学を学んだ医者を呼びたいとの思いで三宅艮斎を誘った。三宅艮斎が銚子で開業すると、儀太郎は時間をつくっては立ち寄った。西洋の医学にも大きな興味を持っていた。儀太郎と三宅艮斎の交流は途絶えることがなかった。三宅艮斎が銚子を離れた後も、良く艮斎のもとを訪れた。三宅艮斎が江戸で「種痘所」を建設するときに合計七百両を寄付している。今の東京大学医学部の前身である。商売でかせいだお金は社会のために役立てるべきだ」との考えを持っていた。

3、佐久間象山の弟子となったのは30歳の時だった。弟子の中に吉田松陰・坂本竜馬・小林虎三郎などがいた。佐久間象山は地震予知機もつくっていた。大地震の前には磁石の磁力が低下するという知識を得て、馬蹄型の磁石に鉄板をつけて、地震が近づくと鉄板が落ちて、その音で知らせる仕組み。

4、30歳の時、生涯の友となる勝海舟と出会った。この時、勝海舟は27歳だった。周囲の影響もあって、広村の有力者に協力をつのり「広村稽古場」を開く。学問と武道を教える塾のようなもの。当時は学校制度がなく、教育を受ける機会のないまま大人になるものが多かった。一人一人が自分の考えを持って行動できることが大切との思いから。

5、34歳の時におじが亡くなり、7代目当主(濱口儀兵衛)となった。この年(1854年11月5日)の午後4時頃に「安政南海地震」が起きた。儀兵衛はゆれがおさまるのを待つと、妻に言った。「私はこれから、村のみんなに津波を警戒するように呼びかけてくる」。儀兵衛もこの津波に飲み込まれたが、なんとか助かった。「第2波が来る前に、まだ低いところに残っている人たちを高台までつれて来よう」。日が暮れようとしていて、暗闇の中で方角が解らずにさまよっている人がいるのではないかと考え、稲むら(村にとって大事な財産)に火をつけた。皆が高台に避難した直後、最も高い第2波が襲ってきたが、間一髪で助かった。すぐに食料の確保(隣村から借りる)や、資材の公平配分などを処理して、津波の翌年から高さ4.5mの堤防工事に着手した。急いだ理由がふたつあった。ひとつは村人にこの村で暮らしていける安心感をあたえること。もうひとつは津波によって財産を失った村人の仕事をつくること。ただで与え続ければいいというものではなく、自分で働き、りっぱにかせいだお金を手にしてこそ、人は満足感を得られる。村を救うために五千両の財産を投じた。しかし、この堤防工事が始まった年の10月に江戸に大地震(安政の大地震)が起こった。ヤマサ醤油の江戸の店は大きな損害を受けて、しばらく休業するしかなかった。銚子の店で働くものが、当主の活動に奮い立って、最高の売上を出した。4年に渡った堤防工事は完成した。高さ5m・巾20m・長さ600mに及んだ。1946年の「昭和南海地震津波」のときには、この堤防のおかげで広村の人は被害をまぬがれた。

6、福沢諭吉との出会いは儀兵衛が47歳・諭吉32歳の時だった。その頃、和歌山県副知事の役職についていた。さらに新政府からは初代郵政大臣に指名された。50歳のとき、息子に8代目を譲り、「濱口梧陵」と名乗った。梧陵が晩年一番力を注いだのは「人を育てる」教育事業だ。「広村稽古場」は「耐久社」と改め、本格的な学校としてスタートを切っていた。51歳から英語の勉強を始めた。同時に和歌山県議会議長を二度務めた。

64歳にアメリカへ渡航したが、体調が悪くなり1885年4月21日ニューヨークの病院で息を引取った。65歳であった。

サウンドスクエア 株式会社

〒314-0346 茨城県神栖市土合西一丁目1番21号 TEL 0479-21-3883 FAX 0479-21-3882

0コメント

  • 1000 / 1000